その日、事務所にいたネウロは全ての感情をその顔から消していた。
空腹からくる不機嫌でも退屈からくる怠惰の表情でもなかった。『全くの無表情』であった。
外は重い灰色をした雲に覆われて今にも振り出しそうだ。
相応しい。まったく、こんな日には似合いの天気だ。月並みに言えば、貴様の為に天が涙でも流すようではないか?
ネウロはスーツを取り、素早く身に付けた。いつものスーツではない。上下ともに漆黒であった。








無題








桂木家の前には黒い人だかりができていた。
その集まりにはまとまりがなく、老若男女様々な人がその手にハンカチやら数珠やらを持って肩を抱き合っていた。
彼らの唯一の共通点はその涙であった。悲壮感と同情とが一つ一つの涙に織り交ぜられていた。
人の多いところは好きじゃないんだが。
笹塚はそう思った。そして、こんな形でまた桂木家を訪れようとは、とも。
ため息を吐く笹塚の横では彼の部下が神妙な、複雑そうな顔で立っている。
それを横目で確認して、上司はもう一つため息を吐いた。
頼むからしっかりしてくれ。俺たちは、これが仕事なのだから。




母の遙はそこにひっそりと座していた。
泣いてはいない。なにやら不思議そうな顔でヤコの写真を見ている。遺影であった。
笹塚はまず彼女に挨拶に行った。お悔やみ申し上げます、と。しかし返事が無い。
こちらに気づいていないのだろうか、と思って呼びかけてみた。「桂木さん?」
そこでようやく夫人は笹塚たちに気づいた。というか声のした方を向いたというかんじに近い。
石垣も異変に気づいた。様子がおかしい。
「大丈夫ですか?」
公務員らしくない、親しみとその心からの心配が感じ取れる声で(まさしく石垣はそういう人間であった)尋ねた。
少しの間をおいて夫人はポツリと漏らした。「愛していなかったのかしら」
え?と石垣が聞き返した。笹塚の耳にはしっかり届いていた。そして恐ろしさを抱いた。壊れかけている。
「私、あの子を愛していなかったのかしら」さっきより少し強めに言った。
「しっかりしてください、桂木さん。気持ちはよく分かりますが…」
「きもち?分かるものですか。ねえ、だって、刑事さん?
 夫が殺されてたった一人の娘なのに、その娘がいなくなったって涙の一つもでないんですよ。」
刑事の目に哀れみが加わった。死んだ、ではなく「いなくなった」。「死んだ」ではなく。
その言葉の持つ意味を刑事である彼らはよく知っていた。
知りたくも無い現実であったが職業がそれを許さなかった。
笹塚は石垣に目配せをして、頷いた。
仕事はまた後日にしよう。無理矢理に話をしても、得られるものは何も無い。
振り返り、笹塚はある人物を忘れていた事に気がついた。だが、何故俺は忘れていたのだろう?
思い出したのはその人物を見たからだった。あの人当たりの良さそうに『見える』男を、自分は一番怪しんでいたはずなのに。




ネウロは遺影を見ても無表情であった。
喉の奥で嘲りの言葉が紡がれる。馬鹿め。自分の立場を忘れるからだ、この愚図が。
もちろん少女を(半ば無理矢理)その立場に立たせたのは自分であることをネウロは忘れたわけではない。
それも全部含めて、ヤコを罵った。それはネウロの中に潜む罪悪感に対する僅かな抵抗であった。

あの日

ネウロは下僕の監視という名目でヤコに『目』を付けていた。が、それを外した。
彼女自身に探偵(本当はこちらが代役)である事での周囲からの危険がどれほどのものであるか、それが理解できていたからだった。
他の理由ではヤコの強い要請があったのだが、彼はそれを認めなかった。
いちいち我が輩の与り知らぬ所で下僕が夜襲にあっていたのでは不愉快だ。
素直ではなかった。故に、彼は『目』を外した事も言わなかった。
監視されていないという事によって生まれるヤコの僅かな隙さえ恐れたからだ。だが、そんなものは関係なかった。
事件は起こった。








ヤコはバスに乗り込んだとき、ちょっと失敗だったかな、という顔をした。
ネウロに散々引っ張りまわされて流石に疲れたヤコは珍しくバスに乗って帰ろうとしたのだが、如何せん椅子に空きは無かった。
まあ、歩いていくよりは幾分かましか。そう思った。ヤコはなんでも前向きに考える癖があった。
やがて、その思考も消えてしまった。
何があったかを把握するまえに、否、そんなことすら考える前に消えてしまったのだ。

バスは吹き飛んだ。運転手含め、乗員38名が死亡。
犯人は未だ特定出来ず、探偵であった少女に恨みを持った者か、最近多発していた無差別爆破テロの線が高いとされた。








後悔も反省も我が輩はしない。ただ、道具が喪われたことによって、探偵助手という社会的地位も消えてしまった。
この世の人間であるという証明がなくても彼は生きていけるが、目立つ行動は避けたかったのだ。
よって、ネウロはまたしばらく空腹を余儀なくせねばなるまい。なにせ警察に面が割れている。
彼の食事にはほとんどの場合、警察が合席しているからだ。
殺人に関わった人間というものはそう簡単に忘れ去られるものではない。それが、解決した者ならば、なおさらである。
ああ、糞。せっかく良い調子で謎にありつけていたというのに、これだから人間というものは愚かだ。畜生め。


笹塚は奇妙な感覚に陥った。助手が微動だにしないからであった。
ネウロはまったく無感動で無表情な顔でずっとそこに立っていた。眉一つ動かなかった。
不自然であった。少なくとも周りは彼のことなど気にかけてもいないが。
特に石垣なんかその典型であった。彼の部下はその横を素通りして遺影に手を合わせに行った。まだ複雑な顔をしながら。
そこで、笹塚は気がついた。不自然。そうか、と納得。彼は、『今が本性なのか』。
まったくその通りであった。その証拠に、そこまでの考えに到達するまでの笹塚の視線にネウロは全く気づけていなかったからだ。
常の彼であったならば必ず気づき、刑事に挨拶をしただろう。おや!刑事さんも先生に手を合わせにこられたのですか?
…ネウロは動揺していたのだ。彼は何事にも全く気づけずにいた。
自分の思考にどっぷり浸かり、利己的な考えを装うのに必死であった。もちろん彼はそれにも気づけなかった。
誰も彼もがその死を悼んでいる。だらしのない刑事は戻ってきた部下を見て思った。
なんとも驚いた事に、石垣は泣きじゃくりながら戻ってきたのだ。
成人式も終えた男が(警察ならば尚更)見せる姿ではないだろうと思ったが、笹塚は石垣のそういう素直な態度が嫌いではなかった。
彼には涙など流せないからだ。そんなものはとうの昔に棄ててきた。
部下の背中を叩きながら、お前が羨ましいと喉の奥で呟いた。もちろん石垣には聞こえない。
外に出て車に戻るまでの数刻で、何か冷たいものが当たった。空を見た。笹塚は苦笑した。月並みな言い方だが、





天が涙を流しているように、見えた。















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そして誰も魔人と少女のことを思い出せなくなった。現実がそうさせた。

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